ベルセルクは、三浦健太郎氏の漫画で、私が学生時代の時から連載していてまだ終わっていない、終わりそうな雰囲気が全くしない私が大好きなマンガである。
時代背景は中世ヨーロッパとお見受けする。私兵の集まりが、国に認められ騎士団になり、国の王女と結婚して更に出世だ!と言う所で、騎士団長グリフィスが嫉妬に駆られた王女の父に捕まって、まともな人間でなくなってしまうくらいの拷問を受ける。騎士団は、賊として追われ、グリフィスは王女との結婚も、騎士団も失って、失意の中、騎士団の命と引き換えに自分も神になる選択肢を取った。仲間を見捨てたグリフィスに恨みを持つ主人公ガッツがグリフィスを倒したい、と、ざっくりいうとそんな物語である。
グリフィスは、神様なのか、化け物か分からないが超越した力を得ているが、現実世界に体を持っていなかった。それがあることをきっかけにして受肉して、神であり人間である存在になった。超越した力を持っていながら人間としての地位を取り戻して昔の国の王になるという夢をかなえようとするのだ。この受肉と言う所、キリスト教のイエスは神であるが人間の体を受肉して、と言う所をモチーフにしていると思われる。この部分は、キリスト教だ。
中世ヨーロッパはキリスト教が勢力を拡大した時代だ。プロテスタントが出現するまで、ユダヤ教、イスラム教の国よりも経済的に発展し、貴族社会はキリスト教徒のものだった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、いずれにせよ、一神教で、神様は1人だけ。多神教は認めない。
しかし、物語の中ではゴッドハンドという、5人の神様なのか、見た目は化け物がいる。これが神様なのかは正直分からないが、私の解釈だと、神様は、平等ではないし、気紛れだ。だから好き勝手、気持ちの赴くままに世界に影響を及ぼす神を三浦健太郎先生は作ったのではないかと思っている。一神教の考えの宗教が多い中、神は一人ではないし、良い奴ではない、という三浦健太郎先生の神に対する見解なのかもしれない。
それとは別の話で、5人の神のゴッドハンドは、因果律によって、物事が全て決まっているから未来が予測できるそうである。因果律、と言う言葉は仏教の言葉で、生前行っていた行いを原因として、もとい、生前の行いに応じて輪廻転生する。悪いことをすれば虫けらになるし、良い事をすればまた人間に生まれ変われるかもしれない。悟りを開くと涅槃(ねはん)に入りもう二度と輪廻転生しなくなる。輪廻の話でなくても、悪いことをすると悪いことで返ってくるという考えが仏教にはある。
キリスト教にも生前の行いによって、審判の日に天国に行けるか、地獄に行くか(存在が完全に消失するか)などがあるが、因果と言う言葉は使わない。神が人間の行い祖すべて決めていて、生まれた時点で、天の国にいけるか決まっている。誰がそうなのかは、分からないから、選ばれた人間のようにしっかり生きなさい、というのがキリスト教の考え方だ。全て決まっているから因果は関係なのだ。悪いことをしても、決められた人は天国に行ける。
つまり5人の自由奔放の神が未来を予測するのに仏教の因果律を使っている。そして、その神の1人は、イエス様の様に受肉して神の子であり、人間になった。仏教の因果律を操る神がキリスト教の神の子よろしく受肉していく。中世ヨーロッパでは全てがキリスト教だ(と、いう個人的印象です)という背景の中に仏教が入ってくる。手塚治虫のブッダで、ブッダがいきなり自分の門下に一神教を進めるような、そんなイメージだ。
ということで、読んでいて、違和感というか気になった宗教の観点でベルセルクを語ってみました。