長らく君主制だった中国が共和政に移行する1大イベントと言えば辛亥革命です。調べて見ると、江戸の無血開城と同じようなことが中国でもありましたのでそのことについて話していければと思います。
明治維新の後、1894年に日清戦争が起こり、昔の中国、清はヨーロッパ諸国の狩場になりました。清でいざこざが起こると、清にいる自分の国を守るためにといって軍隊を送りこんだり、理由を付けて、ケーキを分けるように植民地が増えていきました。
中国は清も含め、長い間君主制で、ヨーロッパ諸国は共和制に移行していて、日本も江戸時代の君主制から、明治維新を起こして共和制になった(天皇がいるので君主制ですが、議会で決めたことを天皇が承認するという意味で実質共和制≒立憲君主制)ため、ヨーロッパ諸国に立ち向かえない清政府を倒して共和制の新しい国を作ろうとしたのです。
その1人が孫文でした。中国建国の父と言われています。医者で学生の頃にハワイに留学するなど、相当なエリートで外国の文化を知っていました。孫文が諸外国から資金や物資を集めて反乱を起こしますが何度も失敗します。日本人も資金援助をしています。日本政府としてみたら革命を起こすような人たちは潰さなければいけないと思うのですが、欧米からの圧力をうけ植民地の危機を感じていた日本人からしてみたら同じアジア人として助けたいと思った様です。
もう1人、キーパーソンは袁世凱です。軍人で清政府の人間でした。武昌蜂起で反乱が成功し孫文が臨時政府の大総統になります。また清政府は存命ですが、袁世凱は清がもう長くはないということを知っていました。孫文と袁世凱が話し合い、新しい共和制の国(中華民国)を認める代わりに袁世凱を総理大臣にしろ、という条件を付けました。まさに日本で言う江戸の無血開城のようです。勝海舟が袁世凱、孫文が西郷隆盛といったところです。
しかし、中国版勝海舟、袁世凱は自分が偉くなる、という野心を持っていたところが勝海舟とは違う所でした。
孫文としても、清政府が弱っていると言っても、完全に勝利するまでには多くの死者が出るから総理大臣の座を渡して権力をふるう事になっても、そちらの方がよい、と判断していた様です。
また、別の話ですが、孫文の周りは袁世凱をかなり警戒していました。袁世凱は孫文を呼び出しましたがそこで何があるか分からない。しかし孫文は袁世凱に会いに行きます。そして最高のもてなしを受けて、損部は、「袁世凱は良い人であると確信した」と言っていた様です。
中華民国で共和制になって多くの政党が出来ると、袁世凱の共和党は第一党ではなくなります。自分の権力が無くなるのが怖いので、裏で手を回して第一党の国民党の党首を殺します。そして、議員を全員辞職させるなどして、自分の権力を強めていきます。
市民からの反乱が起きて、孫文も総理を辞任するべきと袁世凱を倒そうと立ち上がりましたが、袁世凱の軍隊に鎮圧されてしまいます。袁世凱は権力を極め、中華帝国を作りその皇帝に就任しました。しかし、市民や自分の軍隊からの反発も強く、辞任しました。ほんの3,4か月で辞任することになります。
袁世凱は、独裁という強いリーダーシップが必要だと思っていた様で、しかしそれが受け入れられず、強くなるために共和制にしようと作ったのに、もう一度帝政、君主制に戻そうとしている、時代錯誤だ、と批判されることになります。
日本からの21か条の要求を呑んだのは袁世凱ですが、最終的には条約を呑むので、皇帝として認めてほしい、という裏約束があったそうです。袁世凱は翌年亡くなり、孫文もその10年後に志半ばで亡くなります。
明治維新と同じ革命に成功したものの、野心家の思いが国を乱したことは間違いなく、袁世凱が勝海舟の様に野心を出さずに国益にまい進していたら歴史は変わったかもしれません。
以上