ブログ・キュレーションサイトのパクリ問題から見る正義とモラル

Welqのパクリ記事の事件が波及している。技術的なことは専門家に任せるが、写真や文章の著作権回避の方法を見てみると、よくぞこんなことを考えるなと関心すらする工夫をしている。

インスタグラムで身元不明のアカウントを作り、写真や文章をそこに集め、そこから引用、転載する。これは、もはや犯罪すり抜け、脱法行為。

それに対して、人の文章を使って語尾を変えるようなものは、転載でもなく引用でもなく、パクリで犯罪かと言われると、著作権の侵害?ブログでそんな指摘できるのか?また、指摘をされたら、引用転載の言い逃れができる行為だと思う。共に窃盗的な行為で、モラル的な部分で指摘がある行為である。

 

モラルとは、その人、その人たちの価値観正義感に照らし合わせていいか悪いかを決める判断基準であり、それを元に法整備がすすめられることがあるから、新しい脱法行為が生まれ続けることは必然である。出し抜きたい人たちとそれを防ぐ者たちが争い続ける。正義とは、勝った者、勝てば官軍で、社会の怒りを敵にしたら、それが悪になる。

 

歴史と照らし合わせてみると今の価値観では悪いと考えられるもの、その判断が難しいものも多い。アメリカ大陸でインディアンを虐殺して領土を広げていった入植者や、各国が大義名分を付けて植民地にしていったこと。原住民の文化をないがしろにして同化政策をして言った事。農地改革で地主から土地を取り上げる事。

 

物事の正しい、正しくない、の判断は、当事者であればわかりやすい。インディアンであれば許し難いし、入植者にしたら文化を発展させて豊かになるし、インディアンもそれで豊かになるから正義だ、とも考えられる。現代では当事者ではない第三者の意見が力を持つ。

 

モラル的には間違っていることも、犯罪でなければ、止めるものが無ければ徹底的にやる。

ビジネスの世界ではこういうことが平気で出来る人が普通の人を出し抜いて儲けていたのが、ネットの監視の元、モラルが正しくないものは批判され除外されていく、正常な世界に向かっていくことがあるのであれば、社会的に進化をしていると思う。

 

しかし逆に、1人の人間の意見を多くの人たちの意見として伝えていくことで、マイノリティの意見がマジョリティの意見に変わる、操作も可能だ。または、日の目の当たらない所で、行う事で第三者の目を盗んで批判を受けないように脱法行為をしていくことも想定できる。要は情報の弱肉強食、騙し合いなのだから、騙されない様に慎重に思考することが必要、ということだと思う。