対華21か条の要求を期に日本と中国の関係がただれる。

対華21か条の要求、第一次世界大戦後1915年に日本が中国に対して出した要求と希望です。

これが中国とアメリカによって、日本が中国に理不尽な事を言っている、という印象にさせていて、中国では反日感情をあおる材料の1つとして使われているものなのですが、本当にそうだったのか、見ていければと思います。

まず、日清戦争(1894年)にさかのぼります。日本と、中国の前身である清との戦争で日本が勝って、台湾と、遼東半島を手に入れました。遼東半島は韓国と中国の間の海に、半島がいくつかある中の1つになります。

先進国は、清を植民地にしたがっていたのに上手くいかなかったのに、日本に先を越された、という事で戦慄します。日本はイギリスと手を組んで、清で経済発展をさせようとしていました。しかし、ロシア、イギリス、フランスにより三国干渉され、清の独立と、極東の平和を乱す、ということで遼東半島を返還しろと言われ、日本はそれを受け入れました。

 

しかしその後、ロシアは清の総理大臣の李鴻章にワイロを贈って遼東半島の末端の旅順大連を割譲する事を認めさせて、ドイツもフランスもイギリスもどんどん清を奪い合っていきました。日本としては、ふざけるな、と怒り心頭でした。日露戦争(1904年)でそこを取り返します。

 

そして、第一次世界大戦にて、日本はイギリスの要請で参戦します。ドイツが占領していた山東省をイギリスと共に攻略して、パラオを初めと下ドイツの植民地であった太平洋の南の島(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)を攻略し占領します。

 

第一次世界大戦は日本側が勝利し、ドイツが占領していた山東半島を後のパリ講和会議(1919年)にて、日本が割譲されることになります。

 

しかし、三国干渉とその後の他の国の奪い合いを見ると、日本が得た権益を他の国に奪われてしまうかもしれない、という事で、中国に対し、そこを保証して貰う目的で要求と希望を出したのです。(1915年)

 

1、山東省の権益を認める事。

2、日露戦争で獲得していた旅順大連の租借期限(もともと1923年)を延ばすこと。これは日本の安全保障の為。

3、中国最大の製鉄会社を日中合弁とすること。これは鉄や石炭の確保のため。

4、他の沿岸部を他国に渡さない事。これは、日本の安全保障の為。

5、中国に経済顧問、軍事顧問に日本人を置くこと、警察を日中共同にする事。(秘密事項)

 

最後の顧問を日本人とすること、警察を日中共同にすることについてはアメリカの仲介で取り下げられましたが、他の4つは袁世凱は認めました。権益を認める部分で日本人の土地の売り買い、貸し借りを認める文がありましたが、袁世凱は日本人に土地を貸したり売ったりしたら死刑にするという条例を作りました。

 

しかし、中国からすれば山東省返してくれよ、という思いでしょうが、当時は、帝国主義が正解とされていた時代で、山東省ついては他の国は、戦争に参加したから対価としてその位はいいんじゃないか、という事で黙認しました。(アメリカも1~3は黙認。4,5は反対)

 

1919年のパリ講和会議では山東省は日本に、と決まりましたが、中国国内で反日感情が高まってストライキやデモが起こり、ヴェルサイユ条約には調印しませんでした。アメリカは仲介に入り、その後日本は一部返還しました。

 

蒋介石の政権となると、1928年に貿易関係の条約が破棄され(日清通商航海条約、関税を欧米と同じにする、日本に領事裁判権を認める)、日本人排斥の条例が出来ます。土地や家を借りていた日本人は、立ち退きを強要されたのです。これが満州事変の大きな要因の1つになりました。日本人を住まわせないんだったら、国を作ってしまおう、ということです。

 

日本が手を出さなかったら欧米列強やソ連が手を出して日本の安全保障が脅かされる。権益を守ろうとし、安全保障のための要求をした日本と、それに対して徹底的に反抗した中国。確実に言えることは、日本と中国の関係がここから ただれた事だと思います。