ヒトラーの全権委任法は民主的に決まったのか?

なぜドイツでは全権委任法が可決されたのか?

ヒトラーの独裁の元となった全権委任法、ヒトラーの前の政権から独裁であった、という話もありますが、それはさておき、議会という審議する場所があったにも関わらず、この法律が生まれてしまった理由についてみていければと思います。

 

ヒトラーのナチ党は非常に小さな党でした。この頃のドイツの選挙制度は、全て比例代表で、小さい政党でも議席を確保できる仕組みになっていて、その小さい政党の1つでしかなかったのです。1929年の世界恐慌でドイツ経済が悪くなり、失業者は950万人、仕事がなくなったら再就職は諦めるしかない位の状況になりました。

 

経済が悪くなると、政権の信用がなくなり、短期間で政権がコロコロ変わっていきました。28年に12人だったナチ党の議員も32年には、200人近くになっていました。党として勢いをつけていきつつ、ヒトラーはかなり根回しをしていったのです。大統領の息子と会食をして、スキャンダルを使って脅して、ヒトラーを首相にする方向に仕向けるということもあったようです。

そして周りの強い推薦で大統領はいやいやヒトラーを首相に指名しました。しかし、暴走しない様に、副首相には、元首相のパーペンを置いたのです。ヒトラーは首相になりましたが、パーペンの方が力が上でした。元首相のパーペンが内閣を作りナチ党の人間は、2名と少なかったのです。こころは、元首相のパーペンが実権を握り、ヒトラーを隅っこに追いやろうとしていたと考えられます。

そして1933年2月国会議事堂が炎上しました。真犯人は良く分かりません。研究の結果、自然発火である可能性もあるとのことですが、ヒトラーはこれを政治利用しました。共産党員の仕業にして、議員も含めた共産党員3000人を逮捕拘束しました。一部社会民主党議員も逮捕されています。約650議席のうち100議席以上を持っていた共産党は全員議席をはく奪されたのです。

 

そして議会運営のルールも修正して、議会に出席していない議員は賛成とみなしたり頭数から外せるルールに変更しました。こうすることで、逮捕して出席できなくなった共産党議員と、一部の社会民主党議員は議会に出れなくなることで、反対派であるにもかかわらず、賛成する側になったのです。(正確には、議長は許可を得ず欠席した議員を排除できる」「自己の責任によらず欠席した議員は、出席したものとみなされる。排除された議員も出席したものとみなされる」という議院運営規則の修正案)

 

他の政党への根回しの仕方も巧妙で、反対すると不愉快な事が起きるし、反対しても結局可決される、と思うように仕向けました。中央党やバイエルン人民党はキリスト教カトリックの政党になりますが、キリスト教への配慮を見せることで賛成に回ったようです。

 

採決当日、議会の外には、親衛隊、突撃隊が取り囲みます。反対したら何をされるか分からない脅しをかけました。

これで反対したのは、ナチ党に続いて野党第一党の社会民主党だけでした。共産党は逮捕されているので誰も出席できず。後は全員賛成して全権委任法は可決されました。

 

そして、4年限定の法案としたこの法律は、更新をしていって、第二次世界大戦、ホロコーストと、地獄に突き進んでいくことになります。議会の上で成立したとはいえ、反対派共産党の議員の全員拘束や欠席した議員を賛成票に回せる(全体の頭数から差し引ける)ルールに変えるなど、民主的とはかけ離れている事案があり、民主的に成立した、という事には疑問です。

 

しかし、ヒトラーの根回しは、プレゼン能力に劣らない位の才能があります。首相になる部分や、首相になってからも民衆の心をつかみ、資本家の心をつかみ、他の政党の根回しをし、敵対する共産党を排除して、社会民主党の一部を排除し、賛成に持って行った。最初はパーペンの実権が強かったヒトラー政権でありながら、全権委任法で全てを覆してしまった。この手腕はヒトラーの才能によるものだという事なのでしょう。

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