日米修好通商条約はなぜ勝手に結ばれたのか?

江戸末期、ペリーが来航して日米和親条約を結びました(1854年)。これは、開国の1ステップではありますが、自由貿易を認めるものではありません。下田と函館は開港するものの買えるものは、欠品したものだけというルールでした。

そして、その次に日米修好通商条約を結ぶことになります(1858年)。これは、全国各地の港を開港と、領事裁判権、これは、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本の法律で裁けないアメリカの法律で裁きます、という権利です。途上国は法整備が出来ていないことが多いので、おかしな裁判されたらたまるか、という事で領事裁判権がアメリカ側にある条件が入っています。

 

そして、関税自主権がない。自国の作物を守るために、関税を設定しますが、それが決められない条件です。ただ、これについては、一方的にアメリカの輸入品の関税が低い、と言う訳ではなかったようです。当時の先進国と同じような利率であったようです。

 

そして、最恵国待遇。これは、日本が他の国と条約を結んだ時によい条約であればアメリカも自動的にその条約を結びますよ、という内容でした。

 

という事で、開港、領事裁判権が無い、関税自主権が無い、最恵国待遇という不平等な条約を打診された日本、最終的に決定したのは大老の井伊直弼です。

 

本来、天皇(孝明帝)の許可が下りないと条約は結べないはずですが(勅許が必要)、井伊直弼は、勝手に条約を結びました。そして反政府側から強い反発を受け殺されてしまいます。

 

孝明帝は攘夷(外敵は倒す)という考えだったので不平等条約に承認することはないでしょう。井伊直弼は、アヘン戦争、アロー戦争を知っていました。これは清国が開国、開港に抵抗する反応を見せたため、国内のトラブルをきっかけにして武力でいう事を聞かせる、というものでした。清国では、利権が奪われていっている。自分たちも近代化が出来ておらず、たて突けば清国の様に侵略されてしまう可能性があるから不平等でも条約を結んでおいた方がいい、と意思決定したと思われます。

 

ペリーやハリスが来航し、その外圧により各地で夷狄に対抗するため、砲台を建設したり、実践的な武術を磨くような状況が出来たものの、鉄砲が強い時代であるにもかかわらず、剣術を磨く時代錯誤なトレーニングを続けていました。相手がどんな能力を持っているのか分からないので当時の人たちがそれに対抗する手段を考える情報がなく、今できることを磨くしかない、ただ、全然役に立たないであろう、という感じでした。

 

相手の求めるものとして貿易、権益、領土があるとして、まずは貿易を出来るようにするところで留めておけば強硬手段は取れず、その間に近代化をして対抗する力を付けていく、と考えると、個人的には、井伊直弼の意思決定は正しいのではないか、と思いますが、和親条約を拒絶した場合、イギリスやアメリカは日本に対してどう出たのか、清国の様に侵略されていったのか、妄想が膨らみます。