インド、パキスタン、バングラディッシュはもともと1つでした。第二次世界大戦終わるころにパキスタンが独立し、分裂しています。それまでの流れについて簡単に説明できればと思います。
インドは日本で江戸時代末期ではイギリスの植民地でしたが、インド大反乱が起きて、イギリスは鎮圧に成功します。東インド会社に統治をやらせていましたが、イギリス自身で直接統治していった末に、イギリスに対する反感の感情が湧いて独立の機運が高まっていました。
そして1914年に第一次世界大戦がはじまります。イギリスも戦い、植民地のインドもインド人兵士が集められました。戦ったらインド人の自治を認める、と約束して戦ったインド人は、第一次世界大戦が終わるとがっかりします。地方政治で一部分の自治は認めるものの、財政や警察はイギリスが握り、議会もイギリスの拒否権があったのです。
そして、ガンジーとかティラクとか、インドのエリートたちが中心になって反イギリスの運動をしていきました。ガンジーは非服従、非暴力と、戦わないで訴える作戦でした。殺さない信念は、ヒンドゥー教の教えから来ている様です。
その頃、塩は、イギリスの会社が独占的に売ることが出来て、塩に税金がかかっていました。ガンジーはそれを支払わず、自分たちで塩を作ることにしたのです。それが塩の行進と呼ばれていて、ガンジーを含めたインド人が380キロかけて海まで出て塩を作ったそうです。
しかしその運動はなかなかうまくいかず、暴徒化したインド人がイギリス人を殺してしまい中止になりました。
イギリスも徐々にインド人の自治の範囲を拡大していきました。インドのメインの宗教はヒンドゥー教とイスラム教です。自治を認められる時に、片方の宗教の支配になると困るので、敵はイギリスだけでなくて内部にも存在していたのです。
そして第二次世界大戦がはじまります。イギリスの首相チャーチルはインドに対し、戦争協力を求めて、その見返りに独立を認める話をしましたが、1回裏切られているガンジーは戦う前に独立を認めないと許さないとして、イギリスはインドから出ていけ運動、クイットインディア運動をしてガンジーは捕まります。
日本は、アジアで勢力を拡大していて、インドの反イギリス感情を使ってイギリスと戦おうとしており、チャンドラボースは、日本側についてイギリスと戦いました。ガンジーは、日本の帝国主義的な考えを見抜いていて、信用していなかったように見受けられます。
第二次世界大戦が終わり、イギリスは、インドの独立運動を止める力は残っていなかったので、独立を認めました。しかし、イスラム教とヒンドゥー教の対立は起きていて独立するにしても、別々に独立することになりました。
国の形をクレープで例えると、クレープの三角形の左上と右上がパキスタンになって、それ以外の真ん中の部分はインド連邦になります。パキスタンはイスラム教徒が多く、インドはヒンドゥー教徒が多い国になりました。
そして、西パキスタンと東パキスタンで1つの国なのに分断されて1000キロも離れている中で、西パキスタンの政治力が強く、どうも東パキスタンだと割を食うから東はバングラディッシュとして独立しよう、という事で、東パキスタンはバングラディッシュになったのです。