最初は奴隷OKだったリンカーンの奴隷解放宣言

リンカーンの奴隷解放宣言は有名ですが、リンカーンは最初から奴隷を解放する、と言っていなくて南北戦争の途中でこれを宣言するんですね。その事情について話していければと思います。

 1860年、リンカーンが大統領になりました。当初から奴隷制に反対していました。北部は工業化が進んで奴隷制は無くして、自由州と呼ばれていました。南部はプランテーションで奴隷を使った綿花の栽培をやっていて奴隷は必須でした。そのため、リンカーンが大統領になると奴隷制が廃止になって利益が取れなくなることを懸念してサウスカロライナ州が連邦脱退を表明します。すると、他の州も連邦脱退を表明して、アメリカが二分されるのは困るので、二分されない様に引き止める中で衝突が起こり南北戦争に発展します。※ユダヤ人は、分裂を二分することで大国を作らないように扇動した、という話もあります。

連邦を脱退した南部の州との戦いになりますが、南部と北部の境界の州で奴隷を使ってはいるけど、連邦は脱退しない、と息をひそめた州があるんですね。そのため、リンカーンも奴隷については、介入しないと言って戦っていて、北部の軍隊が南部に入ってくると、南部のプランテーションで働いている奴隷が逃げ出して北部に助けを求めます。でも、その奴隷を送り返していたんですね。南北戦争の目的は脱退した南部の州を連邦に戻すことだったので奴隷制は二の次だったと考えられます。

戦いが長期化していく中で、奴隷は敵軍の重要な物資だ、と判断して、奴隷を兵士に引き込んで戦います。そして1863年1月に奴隷解放宣言を出します。奴隷として所有されているすべての人は自由であり、以後自由であることを私はここに命令し、宣言する。

この発言の前に、特定した州および州内部の地域において、とあって、戦っている南部の奴隷は自由でいいけれども、奴隷を使っていて連邦を脱退していないいわば中立の州については奴隷はOKですよ、と言っていたんですね。すべての州で奴隷をNGにしてしまうとそこからの反発に合って南北戦争負けてしまうかもしれない、だから中立の奴隷州にも気を使いつつ、奴隷解放を謳って味方を増やしたんです。イギリスも最初は綿花栽培をやって欲しいと思っていたので南部に勝って欲しかったけれど、奴隷解放宣言で、北部に着くようになった。これは大きな転換点でした。

奴隷を肯定する勢力が強い分、中立を敵にしないために一部奴隷を容認しながら戦ったリンカーン、南北戦争の後には憲法が改正されてすべての奴隷は自由になりました。大きな組織を運営するのに、うまく扱わなければいけなかった奴隷制度、リンカーンは、上手く立ち回って、最終的に奴隷制を廃止することが出来た、という話でした。

☆彡ご案内☆彡

歴史経済政治を耳で学ぶサービス月額980円「リベトレ」