江戸時代、日本にビビッていたスペイン、フィリピンという弱点

家康が江戸幕府を開いて、二代目に家督を引き継ぎましたが、外交権は家康にあり、家康は静岡の駿府に隠居していました。スペインは、遠い海の向こうからはるばるやってきて、フィリピンを植民地にしました。

中国、当時の明の国の貿易の拠点となって、栄えましたが、スペインからフィリピンまでやってくるのにものすごく苦労して、かつ、熱病が流行り人口も増えなくて、日本に攻められたらひとたまりもない、と思っていました。秀吉が朝鮮に出兵する前にフィリピンの方に南下する案もあったくらいで、スペインにとって日本は、脅威だったのです。フィリピンで傭兵として日本人がいましたが、その日本人の傭兵が悪さをしても、処刑などして日本の怒りを買ってはいけない、攻める大義名分を作ってはいけない、と対応に苦慮しておりました。

家康は、天下統一したものの、豊臣家の力はまだ残っていて、貨幣を制する者が天下を制すると感じていて、金銀の抽出技術の向上があれば、もっと力を付けられるのに、と考えていました。そして今のメキシコ、スペインの領土ですが、そこにその要望を伝えに行きました。交換条件として、宣教師を受け入れるという事を提示しました。

当時のヨーロッパはキリスト教の布教を切り口にして新しい領土を拡大していっているので、互いにメリットがある話でした。伊達正宗の家臣がローマで勉強したり、交易をしてきましたが、家康が亡くなると、キリスト教への弾圧が強くなり、天草史郎が島原の乱を起こし、カトリックは締め出される形になりました。日本は鎖国して、長崎でオランダとだけ貿易しました。オランダはカトリックのライバルのプロテスタントの国でした。

スペインは徳川家康とやり取りするに当たって、フィリピンの弱点を一切見せず対応した様で、貿易はオランダに奪われましたが、当初100人にも満たない砦しかなかったフィリピンは250年間繁栄します。

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