世界史において奴隷制度は、18世紀19世紀で終焉を迎えますが、それまでは、奴隷制度があるのが当たり前、という考え方がヨーロッパやアメリカ大陸、アフリカ大陸にあったと考えられます。アメリカ大陸を植民地にするにあたって、キリスト教の布教も行っていったのですが、キリスト教の教えで、奴隷制度をどう肯定していたのか、考えてみたいと思います。
まず、奴隷は人ではない、と言う考え方がありました。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、奴隷について、奴隷は動物やペットと同じ扱いと言及しています。飼い慣らされた動物は人間に支配されるのが一番言い。奴隷も同じ。人間に支配されれば生きながらえるからである。奴隷は人ではなく、動物とか家畜と同じ扱いなんですね。当時はそれが当たり前だったと考えられます。1人で生きる能力がないから支配して生かしてあげている、という理屈で、この論理は、植民地を作るときにも使われています。
また、中世では、ローマ人以外は野蛮人、ローマの領土の外に住んでいたものは全て野蛮人、野蛮人はローマ人に劣る、とか、女性は男性より劣るとか、そういう考えがありました。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が聖書の1つとする旧約聖書では、奴隷は許される記述はありますが、奴隷の売買は禁止しています。お金が無くて自分を売って、お金が溜まったら買い戻す、という記述はあるようです。
イエスキリストの新約聖書になると、それが曖昧になります。私たちはキリストにおいて1つになる、という文言があり、当時の人たちはそれを奴隷制を肯定できるように解釈し伝えていったようです。ローマ教皇も一部の世代の教皇は奴隷制に対して異議を唱えたんですが、その後撤回したり、その時の文化や政治には勝てなかったのかな、という感じです。
奴隷制を公に認めさせるために聖書の言葉を無理やり解釈するような、宗教の政治利用が見られます。アリストテレスが紀元前500年くらいで、1900年位まで奴隷制があったので2000年以上当たり前だった奴隷制、当たり前にするために宗教を巻き込んで当たり前だと浸透させていったんですね。
当たり前は誰かが得をするために作られたものかもしれないと思って今の常識を疑ってみるのもいいかもしれません。
人ではない、と解釈された奴隷、それをラスカサスという人が奴隷制は間違っているとアリストテレスの根本的な考え方を批判し奴隷制の禁止を求めました。
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