性善説、性悪説について、本来の意味と違う使われ方をしていることが多い、という事で、その違いについて話していければと思います。
例えば、ルールを決めるときに、性善説にのっとって考えると良くない、人は悪いことを考えるから性悪説にのっとってルールを考えないとダメだ、とか、そういう話を自分もしておりました。その使われ方としては、性善説は、皆いい人だと考えます、悪いことをしないから大丈夫です、ということで、性善説などと生ぬるいことを言うな、みたいなことを言われやすくて、いわゆる、楽天主義のような使われ方をしているのですが、
そもそも性善説は、中国の儒教、儒学、朱子学の考え方で、中国で始まって、朝鮮や日本に広がった考えで、孔子の論語とかが有名です。その儒学者の中の孟子という人の言葉と言われていて、性善説は、もともと人は善であるけれども、悪に傾いてしまうことがある、だから厳格に律して澄み切った善を目指さなければいけない、という考え方なんです。
逆に性悪説は、孟子を批判する考え方を持った荀子の説で、人は生まれながらにして悪で、育って勉強していくうちに善が身に付いていく、人の本性は悪だ、という考え方になります。
儒教自体が、自分、家族、国と、管理統治するものを広げる中で、一貫して言えることは何かとか、人の心と宇宙と同じ理論で言えることがある、みたいなことをまとめている考えで、儒教の中でも色々な考え方があるのですが、最初が善か悪か、とか、どっちでもいいよと思いますが、そうして他人の学問を否定しないと自分の学問が生き残っていけなかったという事です。
という事でもともとの意味とは違う使われ方をしている性善説について話していきました。