日露戦争につながった義和団の乱の背景

1900年、義和団の乱が清国で起こります。その背景について話していければと思います。この頃の清国は、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本など、色々な国に各地を植民地化されていました。 

キリスト教の国は、植民地で布教活動をします。その際に、仏教は異教でかつ、非文明の象徴だったのです。現地の人間をキリスト教の人たちは下に見ていたのです。そして清国で干ばつが起こります。農業が出来なくなったフラストレーション、キリスト教徒から下に見られるフラストレーションが溜まって爆発します。

山東省の人たちで義和団という集団を作って、キリスト教の人たちを襲っていったのです。失業者があつまり組織は大きくなりました。普通、そんなことがあろうことなら警察が取り締まるはずなんですが、西洋人に反感を持っていた山東省の役人たちは、それを黙認したのです。そして、その怒りはキリスト教徒だけではなく西洋人に向けられて、ドイツの外交官が殺されました。

 西洋に入った情報だと、ドイツの外交官を殺したのは、義和団というテロ集団ではなくて、清国の軍隊だったというのです。各国は、これを機に自分の国の外交官を守るために連合軍を作って戦います。清国の言い分は、連合軍が自分たちの砲台を壊してきたからと言うものでした。それにより、清国の皇帝が義和団を支持したのです。どちらにせよ、植民地でやりたい放題されていた清国がヨーロッパの列強の国にかみついたのです。

 もちろん清国は負けて多額の賠償金を払う事になりました。そして、ロシアはちゃっかり満州を占領しようとしていました。日本は満州で利権を獲得します。ロシアは満州から兵を撤退させますと言いながら撤退させず、交渉がこじれて、日露戦争に繋がっていきます。

 1年間に入ってくる収入の10倍の賠償金を命じられ、その支払いのためにいくつかの税を担保で取られます。そのしわ寄せは清国の国民に行きますので、西洋を排除したいという気持ちが高まります。清国の政府がボロボロになり、革命を起こそうとして何度も失敗している孫文にチャンスが回ってきます。その後辛亥革命を成功させて中華人民共和国を作りました。

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