様々な人たちがパナマ運河を開通させようとしておりますが19世紀中盤、アメリカとイギリスは、互いに中米エリアに運河を開通しようとしていました。アメリカはパナマがあるコロンビアと交渉し、イギリスはその北のニカラグアと交渉しました。ニカラグアは大きな湖があってそれを利用して、交通路を作ろうとしていたのです。
アメリカは、運河を作るに当たって、物を運ぶためのパナマ大陸横断鉄道を作りました。イギリスはニカラグアを攻め、政府に対抗する先住民をイギリス側の人間をトップに立たせてニカラグア全体を占領したいと思っていたのです。
ニカラグア政府はイギリスと対抗するためにアメリカと仲良くなろうとします。ニカラグアを保護する代わりに、運河周りの権利を上げようと言うのです。そして紛争になりました。
その紛争を抑えるために1850年クレイトンブルワー条約を結びます。ニカラグアはアメリカとイギリスの共同管理下に置くこと、運河建設は、勝手にやってはいけないこと。これ以上中米を占領しない事が盛り込まれました。アメリカは、単独ではパナマ運河に着手出来ないことになりました。中米を取られない事でそこからの危険は少なくなりますが、運河を開通させない安全保障の弱さもありました。
ニカラグアを使って交通路を作りましたが、ここは、東海岸と西海岸をつなぐと言うよりも、大きな湖と川を使って、西に行き、陸路でサンフランシスコに物を運ぶルートとして使われました。次は運河を開通させることが出来れば目的達成です。
しかし、ニカラグア政府との交渉は失敗します。運河はアメリカだけに使わせること。アメリカ軍が守る事、という条件があったため交渉が決裂したのです。
その2年後の1878年、コロンビアがフランス人実業家のレセップスに運河開通の権利を売ります。アメリカは、クレイトンブルワー条約によってそれを止めることが出来なかったのですが、幸か不幸かそれが失敗し、レセップスの会社が倒産したという事になります。その後アメリカはコロンビアと交渉し、パナマ建設を進めることになります。
☆彡ご案内☆彡